出生・大東亜戦争・原爆投下と終戦 Part 1
出 生
昭和5年3月。インドではマハトマ・ガンジーが運動を始めたとき、私はこの世界に生を受けました。
その頃、両親は既にクリスチャンになっていました。それは一人の熱心な牧師との出会いがあったからでした。その人は四国の高松の出身で、若い頃に強盗殺人の罪で網走の刑務所に無期懲役の刑で服役しておりました。その時に聖書の話を聞き、獄中でクリスチャンになったという人でした。キリストを信じた彼は大きく変わり、模範囚となって残りの刑を赦免となり、刑務所を出て自由の身となりました。大阪に行った彼は寺田町の近くで伝道し、「望みの門」という教会の牧師となりました。
亀水松太郎牧師
亀水松太郎牧師は、写真では白髪の長い髭をたくわえた好々爺という感のお爺さんですが、説教中、居眠りをしたりすると、「眠っている時か!」と一喝、そして講壇をバシンバシンとゲンコツで叩くなど、恐ろしい程の迫力があったそうです。
私の幼い頃の記憶は5歳位の時からですが、この頃、母が流産から腹膜炎になり、今日は駄目か、明日は葬式かと云う日が四十日間も続きました。やっと命は取り留めたものの、その後は病弱となり、長い間、名古屋から祖母が手伝いに来ていました。
私は、母には駄目と言われる紙芝居に祖母は行かせてくれるので、かえって喜んでいました。その頃、教会はナザレン教会が出来て、応援のために北田辺に移り住み、日曜学校に通うようになりました。
大東亜戦争
6年生の時に大東亜戦争が始まりました。その後、女学校に進学しましたが3年生後半より戦争が激しくなり、学徒動員で勤労奉仕にいくこととなり、工場で高射機関砲の弾を造っていました。
又ある時は、西の方、たぶん堺の方だったと思いますが、大空襲があり、焼夷弾の落ちていくのが見えました。それはモロトフのパンカゴといわれるもので、一つの焼夷弾から多くの焼夷弾が花火のように散りながら落ちていくのです。真っ暗な夜空にそれは美しい光景でしたが、落とされた所は焼け野原にされ、それは悲惨なものでした。
原爆投下と終戦
教会のほうは、戦争が激しくなってきた頃に牧師さんが出征され、閉鎖されたので、メソジスト日本橋教会に行くようになっていました。しかし、ほとんど休んで行かない状態でしたが、母の強い勧めでまた出席するようになりました。そして、22歳の時に教会の牧師のお世話で結婚することになるのです。 そのことはまた次の機会にお話したいと思います。……(つづく)
連載「義母の召天に思うこと」−日下敏彦−
No.1 天国に召された義母(はは)
連載「生きる」 激動の時代を生きる −千恵子抄−
No.1 出生・大東亜戦争・原爆投下と終戦
No.2 少女時代・荒野のような時代
No.3 再臨のこと・聖書の奇蹟・そして救い
No.4 孫娘のこと・私の病気・主にある平安